桜は日本文学において、美しさと儚さの象徴として長く描かれてきました。しかし、戦後の日本文学では、桜のイメージがより複雑で多面的になっています。
このページ【桜の近代小説 その2】では、坂口安吾の『桜の森の満開の下』から三島由紀夫の『熊野』まで6人の作家、10作品を紹介しています。美と醜、伝統と変容、生と死が交錯する桜のモチーフを通じて、日本の近代文学が描く世界を覗いてみます。
目次
坂口安吾 『桜の森の満開の下』に棲む壮絶な「花妖」
■坂口安吾(さかぐち あんご、1906年- 1955年)
小説家、評論家、随筆家。新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科・卒
戦前から戦後にかけて活躍、48歳で没するまでの約24年間(1931年-1955年)の作家生活で純文学、歴史小説、推理小説、文芸から歴史・風俗に至る広範囲な随筆、囲碁・将棋の観戦記など多彩なジャンルで執筆。
戦後、多忙な人気作家になるも、鬱病的精神状態克服のため服用のヒロポン・アドルム中毒で病状悪化を繰り返す。文壇的成功、恋愛、酒、遊び、鬱病、長編小説の失敗、社会的事件(国税局と争ったり、競輪不正事件の告発)等々実生活でも注目を浴び続けた。
代表作「紫大納言」「真珠」「白痴」「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」「FARCEに就て」「文学のふるさと」「日本文化私観」「堕落論」「教祖の文学」など多数
『桜の森の満開の下』
『桜の森の満開の下』(1947年)は、桜の美しさと狂気を描いた幻想的な短編小説です。
『今昔物語』巻二七にある「桜鬼」に由来した、山賊と鬼の化身である姫とのものがたりです。
平安時代のころ鈴鹿峠に棲みついた山賊がいた。彼は通りかかった旅人を襲い、その連れの女性を自分の女房にしていましたが、桜の森だけは恐れていました。桜が満開の時に通ると、気が狂ってしまうと信じていたのです。
ある春、山賊は都からの旅人を襲い、その連れの美しい女性を略奪し八人目の妻にします。この女性は山賊を恐れず、彼が家に住まわせていた七人の女房を次々に殺させ、残ったのはいちばん醜い、足の不自由な女だけでした。新しい女房は贅沢を要求し、山賊は彼女に唆され都に移ります。山賊と女は女中として足の不自由な女を連れて都に住みはじめました。
都で彼女が楽しんだのは「首遊び」。山賊が狩ってくる生首を弄ぶこの残酷な遊びに、さすがの山賊も嫌気がさしました。山賊は山に帰る決意をし、女もそれに従いますが、再び都へつれもどす確信が女にはあるのでした。女は足の不自由な女を都に残し、「じき帰ってくるから待っておいで」と出発の際に言い残しました。
山に戻る途中、満開の桜の森を通ると、女は醜い鬼に変わり、山賊の首を絞めてきます。山賊が必死に抵抗し、気が付けば、元の美しい女が桜の花びらにまみれて死んでいました。涙を流す山賊が女に触れようとすると、女は花びらになり、山賊自身も消えてしまいました。後には冷たい虚空と花びらだけが残ったのです。
桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。
『桜の森の満開の下』 坂口安吾 (青空文庫)
ものがたり結末の描写です↓
彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。
『桜の森の満開の下』 坂口安吾 (青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42618_21410.html
女は鬼の化身でした。山でも都でも山賊をそそのかし残酷の限りを尽くします。その後、桜の森の満開の下で山賊を殺そうとしますが、逆に締め殺されてしまいます。美しい桜の下に隠された、人間の欲望と恐怖、そして儚い命の物語です。
「これは天才でなければ絶対に書けぬおそろしい傑作であり、坂口文学の最高峰といえよう」(奥野健男「坂口安吾――人と作品」(文庫版『白痴・二流の人』)(角川文庫、1970年)
大岡昇平 『花影』に埋もれる幻の徒花
■大岡昇平(おおおか しょうへい、1909年 – 1988年)
小説家。東京生まれ。京都帝国大学仏文卒。成城高校時代(19歳)小林秀雄、中原中也、河上徹太郎らを知り文学に開眼、同人誌「白痴群」に参加。スタンダールに傾倒し、翻訳、評論の執筆。1944年(昭和19年)応召、フィリピン、ミンドロ島にに出征。1945年1月米軍の俘虜、12月復員復員。戦場体験を描いた『俘虜記』(1948年)を発表、作家デビュー。以降、知性派の作家として多岐にわたる活動、多様なジャンルの作品がある。
『俘虜記』(横光利一賞)『野火』(読売文学賞)『花影』(新潮社文学賞,毎日出版文化賞)『中原中也』(野間文芸賞)『事件』(日本推理作家協会賞)『小説家夏目漱石』(読売文学賞)『レイテ戦記』(毎日芸術賞)。
『花影』
大岡昇平の『花影』(1961年)は、桜の花に埋もれて生涯を閉じる、薄倖な女性葉子のものがたりです。葉子は妖女のごとき美貌に、あどけない幼女のような無垢なこころの不思議な魅力の女性です。つぎつぎと恋愛を繰り返し、大学教授松崎との愛人生活にも自ら終止符を打ちます。
そして、古巣,銀座のバーの女給(ホステス)に戻ります。その後虚しさからか、睡眠薬自殺を遂げます。葉子の儚い生に幻のような桜花が重なります。
葉子の死は小説の巻頭に置かれたエピグラフに暗示されているのですが、それはダンテの『神曲』からの原文のみです。イタリア語の読める読者以外にはわかりませんね。
ricorditi di me, che son la Pia; Siena mi fe’, disfecemi Maremma. (Dante)
「あとがき」まで読み進めば訳と掲載の経緯が記されています。(訳のみ写しておきます↓)ダンテ『神曲』煉獄篇の第5歌に登場するラ・ピアの言葉だそうです。
覚えていて下さい。私の名前はピア。シエナで生まれ、マレンマで死にました。 ダンテ
「あとがき」にはこのように書かれています。↓
私がこの作品の隠れた意図がこのことの告発にあることを、ダンテの詩句をエピグラフとして掲げることによって、暗示したつもりです。引用しなかったあとの二行を知っている人にだけわかるように、隠したのでした。
エピグラフに引用しなかったあとの二行はこれです。↓
salsi colui che innanellata, pria.
disposando, m’avea con la sua gemma.そのわけは、玉の指輪をくれて
私をめとった人が知っています。
大岡昇平の『花影』、葉子にはモデルがあるとされています。坂本睦子という銀座の文壇バーのホステスで、多くの文士たち(直木三十五、坂口安吾、中原中也、菊池寛、小林秀雄、河上徹太郎、青山二郎、他)を虜にし浮き名を流しました。大岡昇平とは8年間愛人関係にあリましたが、別れて一年後の1958年に自室で睡眠薬自殺を遂げます。(参考、出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/坂本睦子)
大岡は、ヒロイン葉子の自殺のきっかけは「父代わりである高島が黄瀬戸の盃を二重売りして、彼女を裏切ったためでした。」とあとがきに書いています。高島のモデルは青山二郎(美術評論・骨董蒐集家1901- 1979)です。
大岡は青山二郎を糾弾する目的でこの小説を書いたのではい、としながらも「 、もし高島にモデルがあるなら、私の想像はその人を傷つけることになるでしょう」とも書いています。
坂本睦子と親しかった白洲正子( 随筆家 1910年- 1998年)は、小説『花影』を評して「青山に対しても大岡の日ごろの恨みを小説で晴らしたようだ、」と書いています。(1991『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫)
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小説『花影』の背景事情に少々深入りしすぎたようです。さらにご興味がお有りでしたら、久世 光彦・著『女神』(じょしん)という作品にくわしいので読んでみてください。
『花影』の中の桜のシーンをいくつか拾ってみます。
二人で吉野に籠ることはできなかったし、桜の下で死ぬ風流を、持ち合わせていなかった。花の下に立って見上げると 、空の青が透いて見えるような薄い い花弁である。
日は高く、風は暖かく、地上に花の影が重なって、揺れていた。
青山墓地の桜並木の下で、車を停めた。ヘッドライトで照らし出された花が輝かしい白を重ねて、梢の方へだんだん暗くなっていた。
葉子は口を開け、喉を反らして、幹から幹へよろけながら、退いて行った。
「綺麗だなあ、綺麗だなあ」と繰り返 した。
「食べちゃいたい」ともいった。桜の木の下に死骸が埋まっているという、詩人の幻想を 「とっても綺麗 」といった。
上の引用で「桜の木の下に死骸が埋まっているという、詩人の幻想」とは梶井基次郎の作品をいっているのでしょう。
大岡の『花影』もまた桜の花に埋まれて死んでいく…ある種、陶酔ともいえる妖しい美しい死です。先にあげた坂口安吾の『桜の森の満開の下』 にも通じる、儚い徒花のようです。
葉子が桜に埋もれて死んでいくものがたりはこう結ばれています。
「もし葉子が徒花なら、花そのものでないまでも、花影を踏めば満足だと、松崎はその空虚な坂道をながめながら考えた」
花の下に立って見上げると、空の青が透いてみえるような薄い脆い花弁である。
日は高く、風は暖かく、地上に花の影が重なって、揺れていた。
もし葉子が徒花なら、花そのものでないまでも、花影を踏めば満足だと、松崎はその空虚な坂道をながめながら考えた。
引用は、講談社文芸文庫 『花影』 より
中村真一郎『美神との戯れ』、『雲のゆき来』
過去と現在が重なる美の探求
■中村真一郎(なかむら しんいちろう、1918年 – 1997年)小説家・評論家・詩人。東京生まれ。東京帝国大学仏文科卒業。1942年、福永武彦らと新しい詩運動「マチネ・ポエティック」を結成。1947年『死の影の下に』(5部作,(1947年 – 1952年)で戦後文学の一翼を担う。王朝物語、江戸漢詩にも深い造詣。
代表作『雲のゆき来』(1966年)、『頼山陽とその時代』(1971年)、『四季』4部作(1975年 – 1984年)、『この百年の小説』(毎日出版文化賞1974年)、『夏』(谷崎潤一郎賞1978年)、『冬』(日本文学大賞1985年)、『蠣崎波響の生涯』(藤村記念歴程賞1989年、読売文学賞1990年)など
『雲のゆき来』
『雲のゆき来』(1966年)は、知的で詩的な文学的探求の作品。
江戸時代の漢詩人・高僧、山城・深草瑞光寺 (京都市)を開山した元政上人(げんせいしょうにん 1623年-1668年)は京都の地下官人の子として生まれ、13歳から彦根城主・井伊直孝に仕えます。やがて隠棲、明暦元(1655)年,草庵(竹葉庵)を建て父母と共に住みます。詩文や和歌を詠じ文筆家としても一代の名声を得ます。
その元政上人の事蹟を訪ねる旅に出ようとした「私」は、仔細あって新進国際女優 楊嬢と同道することになります。
ドイツ系ユダヤ人の父と中国人の母を持つ女優 楊嬢は、父親が愛した五人の女性に会うために京都へ向かおうとしています。女性遍歴を重ねた父への憎悪を整理するための旅です。
女優 楊嬢と 古都を巡りながら、現代と 江戸時代を ゆき来するこの小説には、元政上人の詩文や、古人の漢文が白文で引用されます。「私」と女優との議論にはリルケやフロイトの言説を援用したり….、
世田谷豪徳寺の桜、京都山城深草詣で、ヴェネチア映画祭へと、旅に重なる時空を超えた思いは現実とひとの内面とをもゆき来します。
『私設源氏物語』『王朝の文学』やいくつもの王朝小説集の著作もある作者が、平安時代から江戸時代へとどのように紡ぎ、そして近代ヨーロッパや日本の文化への洞察が、どのように交差してものがたりとして織りなしているのか…、それを愉しめるかは、読者に委ねられているのかも知れません。
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物語のはじめの章に世田谷豪徳寺境内の「臥竜桜」が登場します。臥龍桜(がりゅうざくら)といえば岐阜県高山市一之宮町にある国の天然記念物の一本桜ですが、かつて豪徳寺にも臥竜桜と呼ばれる老桜がありました。小説では、当時樹齢600年近いといわれていたこの妖艶な美しさを放つ豪徳寺の枝垂れ桜を丹念に描写しています。豪徳寺は井伊家の菩提寺でもあり直孝の墓もあります。
「私」は毎春に豪徳寺を訪れ、池の畔の戦没学生記念碑と老桜に思いを馳せます。戦時下に青年期を過ごした作者の思いも同様だったのでしょう。
ーーーーー 私と同世代の青年たちは、一九四〇年頃からもう年をとることはやめて、この記念碑のなかから、永遠に若い眼差しで、いつまでもこの桜の花をみつめているのだ。……
だから、私は春毎に、この老樹の下に立って花を見上げる時、私の心に云い知れない複雑な微かな音が湧き上がってくるのを感じないではいられない。私の心のなかでは、五百年の間にこの花に託した無数の人々の思いが、一斉にまた語り始めるのだ。彼等の甦りと共に、彼等を包んでいた物音がやはり一斉に目覚めるのだ。『雲のゆき来』 中村 真一郎・著(講談社文芸文庫)
※現在、豪徳寺には昭和29年5月建立の無名戦士慰霊記念碑があります。
『美神との戯れ』
『美神との戯れ』(1989)は、七十歳の画家であり陶芸家の「私」の生と性愛の遍歴を綴った日記体小説です。雑誌「新調45」の1988年6月号〜89年4月5月号に連載されました。連載中は、『わがポルノグラフィ』という副題が付せられていましたた。(「あとがきに代えて」より)
老いた芸術家の数々の美神との戯れが、過去と現在が重なり、そして、生きる証でもある美の追求を支えるのが性愛であり、その根源を探求しているかのようです。作者は老いと性を描く中で桜への思いを吐露しています。
『雲のゆき来』から20年以上が過ぎて書かれたこの小説にも、桜には常につき纏う死と無常観が漂っているようです。
老年=死という観念は、突然に私に、近くの小駅のまえの広場に桜を見に行こうという思い付きに出会わせた。この数年、毎年、桜の季節となると、もうこれが生涯の桜の見おさめか、という感慨に捉えられながら、花吹雪のしたに立つ習いとなっているからである。これは薔薇や百合に対しては全く起らぬ感想であり、梅や桃の盛りの林のなかを逍遥しても、少しもそのような気分に捉えられることはないのだから、桜と死との間に、あるいは日本人独特の、王朝時代以来の観念連合が無意議のうちに働いているのかも知れない。西行法師のあの有名な、「花のもとにて云々」の数にあるように。ーー
そして、桜は妖しい美神でもあるようです。
ー略ー、小雨に満れるのも豚わず花の散るしたを、散策しはじめた。少年時代には、ただ薄汚い印象をしか持たなかった桜の花が、年々、耐えがたいほどの美しさで、私に迫ってくるというのは、これもまた死の前兆であろうか。
私の胸の奥から、暫く忘れていた画家の本能が突き上げて来た。私はヴァンに戻り、後部のガラス張りの上げ扉越しに、満開の花に重そうにしなう枝ぶりの写生に取りかかった。すると開いた頁一面が桜で埋まり終った頃、私の鉛筆はいつの間にか、その桜樹のあいだに、ひとりの若い娘の裸身の幻影を描き出しはじめていた。『美神との戯れ』 中村真一郎 著 (新潮社)
数々の美神との戯れが展開されます。
「しかし、これは一篇の『作り物』に過ぎないとはいえ、佐藤春夫の言い草ではないが『根も葉もある嘘』であり、作者の七十年の人生がかかっている。」(「あとがきに代えて」より)
水上勉 『櫻守』、『醍醐の桜』、『在所の桜』沁みわたる桜愛
■水上勉(みずかみ つとむ1919年- 2004年)
福井県の集落で貧しい宮大工の家に次男として生まれ、9歳で京都の伯父宅へ、10歳で禅寺の小僧になる。13歳のときに出奔、その後連れ戻され中学校編入。卒業後様々な職業を経ながら1937年立命館大学文学部国文学科に入学、中退。戦後、宇野浩二に師事する。1959(昭和34)年『霧と影』で本格的な作家活動。1960年『海の牙』(探偵作家クラブ賞)、1961年『雁の寺』(直木賞)、1971年『宇野浩二伝』(菊池寛賞)、1975年『一休』(谷崎賞)、1977年『寺泊』(川端賞)、1983年『良寛』(毎日芸術賞)。社会派推理小説から次第に純文学的作品へ。自伝的小説、歴史小説、劇作、伝記小説など多数の作品がある。日本芸術院会員、文化功労者。
『櫻守』
『櫻守』(さくらもり 1968新聞連載、1969年新潮社・刊 )
ヤマザクラの美しさに魅せられた植木職人、弥吉の物語です。1968年(昭和43年)に毎日新聞夕刊連載されたこの小説は、桜に人生を捧げた男の情熱と執念を描いています。
丹波の山奥に生まれた弥吉は、十四歳で京の植木屋に奉公。ここで出会った職人、橘喜七の世話で竹部庸太郎のもとで学び働くことになります。以来、四十八歳でその生涯を終えるまで桜の手入れに精魂を傾け、桜の美しさを守りつづけることに生きがいを見出し情熱を捧げます。
弥吉の師、竹部庸太郎は、桜研究の第一人者である笹部新太郎*がモデルで、桜に対する深い愛情と知識が物語にリアリティを与えています。
竹部は言います。「本当の日本のさくらというものは、花だけのものではなくて、朱のさした淡(うす)みどりの葉と共に咲く山桜、里桜が最高」 ソメイヨシノは…、「あれは花ばっかりで気品が欠けますね。」
弥吉が「ヤマザクラ」の名を覚えたのは9歳のときでした。木樵(きこり)の祖父から教わります。鶴ケ岡から二里ほど山へ行った洞戸という部落です。弥吉の桜の原風景です。
これが桜だとわかるのは、祖父の死ぬ前年だから九歳の時である。花ざかりの四月半ば、やはりここへきて、
「弥アよ、山桜が満開や」
と祖父がいった。はじめて山桜の名をおぼえた。桜の下へ祖父は木端の大きなのをあつめて、地べたに敷いて弁当をひろげた。桜は弥吉の手で抱えきれないほど太く、横縞の肌はみなすべすべしていた。どの木もあかみをおびた新葉が出て、花はその新葉のつけ根のあたりに付き、細枝がたわむほど重なっている。桃色のもあり、純白にちかい空の透けてみえるようなうすいのもあった。どの木も同じ花の木ではなかった。
弥吉は敗戦間近に舞鶴の軍需工場に動員されますが、間もなく終戦を迎え京都に戻って再び植木職人として働きます。やがて各地の名桜巡礼の記録「桜日記」をつけ始めます。すでに癌に侵されていました。
病が進行し死期を悟った弥吉は遺言を残します。かつて訪れた桜の下に骨を埋めて欲しいというものでした。琵琶湖西岸にある海津の村の山ぞいにある、共同墓地の樹齢三百年の巨大な彼岸桜です。見事な枝ぶりで、村人が慈しんで育て、枝一本損傷していない、いわば共同墓地の霊木です。弥吉はかつて訪れた時、「小雨にぬれる戦死者の墓標に傘をさしかけるようにして、枝をはる冬桜をみて瞼がぬれた」のでした。
埋骨の日、竹部は弥吉を偲んで語ります。
日本は桜の国です。埋まって死にたいと思うような桜は仰山ありますけど、桜の下に埋まって死ねるということは、なかなか出来ることでなく、恵まれたひとやなと思いました。……
引用:水上 勉・著 『櫻守』 (新潮文庫)
『醍醐の桜』
『櫻守』執筆後、水上勉はいくつかの桜をモチーフにした短編や随筆があります。『醍醐の桜』、『在所の桜』、『高野川桜堤』(短編集『出町の柳』文藝春秋 1989に所載)など
『醍醐の桜』(1992年)は、水上勉の私小説です。
北京に滞在していた著者は天安門事件(1989年6月4日)に遭遇しで帰郷します。その直後に心筋梗塞の発作に見舞われ、その入院時期を振り返りつつ執筆された短編集。7編を収録。
表題作の『醍醐の桜』は著者の胸中に去来する醍醐の地、終戦間近の頃、リハビリ中の現在…、死と直面する自らの姿や、脳裏に去来する多彩なことを、櫻愛の作家の筆致で綴っています。
さすがは天下の桜名所、四月十五日は花も真っ盛りなのである。私は私で、ちょうど、五十年近い前の春に、馬をつないだ日頃をえらんできてみたのだが、駐車場から参道へ出たとたんに、重たげな花をたわめて風に散る桜庭下は人ごみの頭の上のことなので天が花になったようで、眼を瞠らずにおられなかった。参道をゆく老幼男女の肩にも頭にも花は散りかかる、空まで雪の花片だった。
醍醐の櫻 (新潮文庫)
↑「五十年近い前」は、「私」(作者)が徴兵されて伏見墨染町の陸軍 輜重輓馬隊(しちょうばんばたい)にいた頃です。
『在所の桜』
『在所の桜』(1991)は『醍醐の桜』の前年に発表された随筆集。著者が心臓発作で倒れて(前述)、その療養中に執筆された。桜に対するいろいろな思いが22編の文章に綴られています。
『櫻守』の竹部庸太郎のモデルとなった、桜学者の笹部新太郎についてもこの随筆で詳述されています。
「山里に孤高に生きる老桜たちの声を聴き、桜守たちの心を描く随筆集」(紹介文より)
【全・二十二編の表題】
「村の桜」、「等持院の桜」、「丹波周山」、「忘れられた巨桜」、「奥美濃、「円山公園枝垂桜」、「雪の中の桜」、「神代桜」、「うちの太白」、「荘川桜」、「桜演習林」、「ぜんまい桜」、「桜街道」、「三隅の桜」、「老桜のこと」、「京の桜 一つ二つ」、「奇妙な桜」、「八重桜の話」、「今年の桜」、「在所の桜」、「水上村の桜」、「汝が桜」
五味康祐 『桜を斬る』、『薄桜記』に映る武士の美学
五味康祐(ごみ やすすけ、通称こうすけ・1921年 – 1980年)
大阪生れ。早稲田大学英文科中退。学徒出陣で陸軍に入り、一兵卒として中国大陸を転戦し、1945年夏の終戦を迎える。1946年に復員し、様々な職業を転々とした後、日本浪漫派の保田與重郎に師事する。
『喪神』(1952年)で芥川賞。以後、時代小説家として活躍し、剣豪ブームをもたらし流行作家となる。『秘剣』『一刀斎は背番号6』『柳生連也斎』『柳生天狗党』など多数の作品がある。
クラシック音楽やオーディオの造詣が深く『西方の音』、『オーディオ巡礼』などの著作もある。野球評論、麻雀、占い等の寄稿も多かった。
1961年飲酒運転で逮捕。64年、トラックと正面衝突事故を起こし一時重体。65年、2人死亡の人身事故を起こし禁固1年6月、執行猶予5年の有罪判決を受けた。贖罪の著書『自日没』(にちぼつより)がある。1980年(昭和55年)、肺癌のため58歳没。
『桜を斬る』
『桜を斬る』は、現在は新潮文庫『秘剣・柳生連也斎』に芥川賞受賞作『喪神』とともに収められています。
(新潮文庫『秘剣・柳生連也斎』収録作品:「喪神」,「秘剣」,「猿飛佐助の死」,「寛永の剣士」,「桜を斬る」,「二人の荒木又衛門」,「柳生連也斎」,「一刀斎は背番号6」,「三番鍛冶」,「清兵衛の最期」,「小次郎参上」)
* * * *
3代将軍徳川家光の時代に行われたとされる寛永御前試合(かんえいごぜんじあい)を題材にした短編です。「寛永御前試合」は講談の題材で架空の試合であり、史実ではないとされています。小説の作者五味康祐は、「日本剣道史」に載っているし、中里介山も認めている、『だから、寛永試合は、本當にあったことにしておく。』と書いています。講談の武芸ものに触発された、著者の創作でしょう。作中では寛永11年(1634年)5月になっています。
御前試合で対戦する武士二人の名は、菅沼紀八郎と油下淸十郞俊光。千代田城吹上御苑に咲く「氷室の櫻」*(ひむろのさくら)の枝を斬って技を競いあうことになります。将軍家光は、「花を散らさず、枝のみ斬ってみせるなら」ということで試合を許可します。
まず、紀八郎から挑みます。「一瞬白い虹が枝に懸かったと見る間に、爛漫の花をつけた枝が」、足許に落ちます……が、見事に花びら一枚すら散りません。観ているものはその卓越した美技に酔いしれます。
続いて淸十郞です。
次に淸十郞が行つた。これも、櫻の木の下に佇むと、手頃の枝を見上げていた。紀八郎より背が低い。やがて、淸十郞は、しずかに太刀を拔くと、八双の身構えから、まるで高速度寫眞を見るようにゆるく一枝を斬つた。枝は音もなく落ちた。淸十郞は太刀を鞘に收めると、これも枝を拾い上げて、ゆっくりこちらへ歩み出した。二、三歩來た時、一齊に、泣くが如く降るが如く全木の花びらはハラハラハラと散つた──。
「おお……」
蕭然として、思わず嘆聲を洩らす一同の耳に、
「油下淸十郞の勝ち。」
凜とした審判の聲が響いた──。新潮文庫『秘剣・柳生連也斎』所載『桜を斬る』より
将軍からは「花を散らさず、枝のみ斬る」のならという条件でしたが、「一齊に、泣くが如く降るが如く全木の花びらはハラハラハラと散つた──」のにお咎めなく「油下淸十郞の勝ち」となりました。
咲き誇る桜はきれいですが、この物語は、散る桜のさらなる美しさを描いたものですね。作品の前段では、武士ふたりの閲歴や武芸修行が語られていますが、全てはこの場面の描写のために費やされていたように思えます。
*「氷室の桜」は晩夏の季語です。氷室の近くで夏に咲く遅咲きの桜をいいます。また、春に咲いた桜を、氷室に入れて保存しておくことを言う場合もあるそうです。昔の氷室は涼しい山中などの洞窟や地面に掘った穴に小屋を建てて覆ったものが原点です。この小説の場合、吹上御苑の千代田稲荷の祠(ほこら)の傍らに咲いているので、そのように作者が名付けたということかも知れません。
『薄桜記』
『薄桜記』(はくおうき1959年)は、『産経新聞』夕刊に連載(1958年7月~1959年4月)されました。赤穂浪士の吉良邸討ち入りで知られている「忠臣蔵」・外伝という趣のものがたりです。『薄桜記』を原作とした、映画、テレビドラマ、舞台劇なども数多く作られています。
旗本随一の剣の達人丹下典膳が大阪に赴任中に新妻、千春の不義密通の噂。江戸に戻った典膳は、狐の仕業として周囲を納得させたうえで、妻を離縁します。これに絡んだ仔細あって義兄、竜之進に斬りつけられ、左腕を失います。このときに無抵抗であったことが、武士にあるまじきこととして丹下家は断絶、深川の長屋で侘びしい浪人暮らし、非業の運命を甘んじて生きます。
その後、斬り合いや、無頼者の成敗などを経て、行方知れずになりますが、江戸に戻り上杉家江戸家老・千坂兵部の頼みで吉良上野介の警護役を引き受けます。
一方、中山安兵衛は越後溝口家に仕えていましたが、権力争いを嫌い故郷を離れ、江戸小石川の一刀流堀内道場に入門します。その後、安兵衛は高田馬場の決闘の助太刀で名を挙げ、堀部家の婿に入り、播州赤穂藩浅野家の家臣・堀部安兵衛となります。
典膳と安兵衛とは、互いに友情を感じながらも敵味方となってしまいました。吉良の用心棒となった典膳を、討ち入りの前に、安兵衛は倒しておかなければならない状況となり、ふたりは対決します。典膳は安兵衛に討入りの情報を与えた上、覚悟の斬り死にむかいます。
谷中七面宮の桜の木の下で討たれた典膳に、淡雪が降りかかります。あたかも桜の花びらが散りそそぐように……。故意に討たれて死を選ぶ武士の悲愴と、散る桜が重なる典膳の最期です。
千春が初めて青年武士・典膳を見かけたのもこの谷中七面宮の桜の木の下でした。↓十五の春でした。それから三年後に祝言をあげたのでした。
谷中七面宮へお詣りにいって、広い境内にはいると
最初に目についた一本の桜が、満開の花を咲かせていた。
彼女はお付きの女中を振り返って、「美しいわ…」
目をみはって笑い、そのままたたずんで眺めた。
そばへ近づくより離れている方が美しさの立ち勝るのを
少女らしく信じたのである。
風の少しもない、長閑な春の日であった。
ーー 略 ーー
青年は父を追うて足早に同じ桜の下を通ったが、
チラと花を見上げ、あっさりこれも通り去った時に、
風のない筈が、沢山の花びらがハラハラ降る如く地面へ散ったのである。
ほんの偶然かも知れないが、見ていた千春には印象の強い場面だった。五味 康祐・著『薄桜記』(新潮文庫)
三島由紀夫 『熊野』伝統と近代の相克、逆説の桜観
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■三島由紀夫(みしま ゆきお1925年- 1970年)
小説家、劇作家。東京生れ。本名、平岡公威(きみたけ)。1947年(昭和22)年東大法学部卒業、大蔵省に勤務、9ヶ月で退職、執筆生活に入る。長編『仮面の告白』を刊行(1949年)、作家としての地位を確立。唯美的傾向と鋭い批評精神を特質とする作品を発表。
主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げ、1970年11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。
『熊野』(ゆや)(『近代能楽集』より)
三島由紀夫の『近代能楽集』(きんだいのうがくしゅう)は能の謡曲を近代劇に翻案したものです。
1956年(昭和31年)に新潮社より刊行され、、「邯鄲(かんたん)」「綾の鼓(あやのつづみ)」「卒塔婆小町(そとばこまち)」「葵上(あおいのうえ)」「班女(はんじょ)」の5曲が収録されました。その後1968年(昭和43年)に新潮文庫版が刊行された際には、「道成寺(どうじょうじ)」『熊野』(ゆや)「弱法師(よろぼし)」の3曲が加わり全8曲が収録されています。『熊野』の初出は1959年、雑誌『聲』4月号に掲載されました。(これの前、1955年には中村歌右衛門の白主公演のための歌舞伎版「熊野」があります)
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元の謡曲「熊野(ゆや)」は『平家物語』から題材を取ったもので、平宗盛と愛妾・熊野(ゆや)の逸話に、洛東の桜名所・清水寺の花見が重要なファクターとなっています。三島の『近代能楽集』『熊野」は極めて現代風なシチュエーションで展開されます。登場人物の名前も「熊野」はカタカナ名前の「ユヤ」、「朝顔」は「朝子」といった具合です。平宗盛は実業家の「宗盛」です。桜の花見というモチーフは登場しますが、原曲のように桜美を讃えて盛り上げるというのではなく、宗盛は否定的な言を発します。
ユヤは桜の満開を見て言います。↓
ユヤ : 本当にきれいな桜の満開。花がたくさんの影を畳んで、あたたかな日ざしのなかで、一枝々々が花の泉の盛り上がるやうな勢ひを見せ、そのあひだにはなまめかしい黒い枝々。
宗盛 : 哀れなものだ。哀れな貧しい花だ。
随所でユヤは桜に対して肯定的な表現をしているのですが、作者は宗盛にして上のように「哀れな貧しい花だ」と言わせています。三島は桜を通俗な花とみているのでしょうか。
■ 三島版『熊野』(『近代能楽集』)のあらすじです。↓
若き美女、ユヤ(熊野)は大実業家の宗盛に豪勢なアパートを与えられ、愛人として囲われている。ユヤは宗盛に内緒で、北海道に住む恋人・自衛隊員の薫がいる。彼女は母親が病気だという口実を作り、帰郷したいと宗盛に願い出る。
しかし、宗盛は自身の所有する桜の花見に、ユヤを誘う。盛りの桜の花は今という時間にしか見られない、美しい盛りのユヤを伴って花見をしたいと言い、彼女の帰郷を聞き入れない。
君の感情とは一切関係がない。君はきれいな顔をしている。きれいな体をしている。その君を連れて俺が花見に行く。それだけで十分だ。
ーー 略 ーー
俺に大切なのは、今という時間、今日というこの日だよ。その点では遺憾ながら、人のいのちも花のいのちも同じだ。同じなら悲しむより楽しむことだよ。
ユヤの友人・朝子(朝顔)が、ユヤの母マサからの手紙を持って現れる。手紙には娘に一目会いたいという母の心情が綴られている。宗盛はそれでも花見を優先し、許可しない。バルコニーで話しているうちに外は雨模様となり、ユヤの帰郷を許す。
旅支度を済ませたユヤが部屋を出ようとすると、宗盛の秘書・山田がユヤの母親・小太りのマサを連れて入ってくる。マサは娘の仕組んだ嘘をすべて山田に告白していた。マサのニセ病気も結婚を約束した恋人のことも、結婚資金のために愛人になったこともすべてあからさまになった。
最後の場面。宗盛とユヤのふたりだけ部屋に残る。雨が降って、遠くに桜が濡れてみえる。ユヤは、「ひどい雨ね。今日はお花見ができなくて残念」と言うと、宗盛は、捲きついていたユヤの腕をとき、手を握ったまま、
「いや、俺はすばらしい花見をしたよ。…… 俺は実にいい花見をした」とユヤを遠くから見つめるようにして言った。
引用、参考、出典 :三島由紀夫・著『近代能楽集』(新潮文庫)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/近代能楽集