突然ですが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は日本に帰化してから、オクラを食べたことがあるのでしょうか。

「彼は、ニューオリンズのオクラ料理を懐かしく思い、日本中を探し回った」、 なんて記録はありませんよね。

 

日本に来てからオクラを食べたのか、結局わからなかったのですが、、、

 

ナゼそのようなギモンが生じたのかと申しますと、、、

お急ぎでなければ読み進んで、最後までお付き合いくださいませ。m(_ _)m

 

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オクラ 日本にはいつから

オクラ
野菜としてのオクラが米国から日本に入ってきたのは、19世紀後半ということですから、さほど古い事ではありません。明治6年(1873年)発行の「西洋蔬菜栽培法(開拓使蔵版)」(セイヨウソサイサイバイホウ)という西洋野菜の栽培法の本に【黄蜀葵】(オクラ)(アメリカ  ネリ)と記載されているのが初出とされています。

🔺画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」より
(url: https://dl.ndl.go.jp/pid/1901097/1/2)(※インターネット公開(保護期間満了))


「ネリ」とは中国原産の植物、「トロロアオイ」
の事で、「黄蜀葵」と書きます。こちらは、オクラの渡来以前からありました。黄蜀葵は「おうしょっき」とも読みます。アオイやハイビスカスの仲間で、根茎や果実がネバネバの粘液質ですから、トロロの名があります。観賞用の花として、また薬草として、あるいは和紙漉きの粘着材や蕎麦のつなぎとしても使われていたようです。俳句ではオクラも黄蜀葵(とろろあおい)も夏の季語です。
日本で栽培し始めたころは「陸蓮根(オカレンコン)」と呼ばれていたそうです。切り口の形状がレンコンに似ているところからでしょう。一般的にオクラが食されるようになったのは昭和30年代からと言われています。

オクラの原産地は

オクラの原産地は現在のエチオピア、エリトリアの山岳地帯や高原地帯、スーダンの東部高地などとされていますが、オクラの初期の歴史や分布については殆どわかってはいないようです。

 

オクラがエチオピアから北アフリカ、地中海東部、アラビア、インドにいつどのような経路で運ばれたのかも、わかっていません。古代インドにオクラの名前の記録がないことから、インドにオクラが伝わったのはキリスト教時代が始まってからと考えられています。

 

エジプトでは紀元前から食用としていたようですが、古代のエジプトの遺跡や遺物からは、オクラの痕跡はまったく見つかっていないそうです。エジプトでの最古の記録は13世紀にあるそうですが、7世紀ごろにエジプトを征服した東方のモスレムによって持ち込まれたのだろうと推測されています。

 

その後各地に伝播し、南米へは17世紀ごろ、それから奴隷貿易とともに北米へと伝わって行きました。

・参考: Okra, or “Gumbo,” from Africa

オクラの種類と食用 花オクラ

いまはオクラの種類も増えて、断面が五角形以外に丸いものや、生食用のミニオクラ、赤いオクラ白いオクラもあります。沖縄の在来種島オクラ、八丈島の八丈オクラなどは丸型で柔らかく大きめの品種です。

 

オクラの花も食べられますが、改良種が食用花として栽培されています。食用の花オクラは花の部分だけを調理用に使います。きれいな淡黄色の花弁で、生のままサラダの彩り用や、湯通しをして冷水に取りおひたしや和えものにも使います。天ぷらなど揚げ物もの、添えものやあしらいとしてなどの利用も見かけます。

 

オクラ、ケイジャンとクレオールと

日本での「オクラ」の名は、アメリカからわたって来た「okra」からの外来語です。その語源はアフリカ、ガーナのトウィ語(Twi)に遡るといいます。

アフリカで栽培されていたオクラが、アメリカへ12~13世紀の交易とともに入り、奴隷貿易によってさらにに普及します。西インド諸島でも人気がありましたが、アメリカルイジアナでのケイジャン料理やクレオール料理で頻繁に利用されるようになっていきました。オクラがシチューにとろみをつけたり、シンプルな料理を引き立てたりする効果があることから、南部料理の定番となりました。

オクラとジャンバラヤ♪

「オクラ」は英語”okra”からの名と申しましたが、アメリカ南部ではフランス語のガンボ(gumbo)という名でも有名です。ご存知でしょう、「ジャンバライヤ」(原題:Jambalaya (On The Bayou)という歌。

「♪グッバイジョ~」で はじまるアレ。カーペンターズの歌唱でご存知かもしれませんが、元歌はハンク・ウィリアムス(作詞・作曲:Hank Williams & Moon Mullican)です。

あの歌に「ガンボ(gumbo)」がでてきます。
♪ Jambalaya and a crawfish pie and file’ gumbo
Jambalayaジャンバラヤ crawfish pie:ザリガニのパイ file’ gumbo:ヒレ肉入りのスープ

歌われているガンボは、オクラ入りシチューやスープの事でしょう。オクラそのものもガンボです

お馴染み、Hank Williamsの♪”ジャンバラヤ”【Jambalaya (On the Bayou)】

“ジャンバラヤ”【Jambalaya (On the Bayou)】は、1953年1月1日29歳の若さで急死した ハンクウィリアムスが1952年に発表したカントリーソング。故郷の人々に新妻をお披露目する男の喜びを唄った明るい歌です。ケイジャンソングが基になっておりケイジャンの風物とケイジャン英語が随所にちりばめられています。

 

副題のオン ザ バイユー(On the Bayou)Bayouは沼地のようなところですが、この歌ではミシシッピー川下流のデルタ地帯に広がる入り江や沼地地帯のことでしょう。

   ■ Bayou イメージ ↓

ルイジアナ州のバイヨー
出典:https://en.wikipedia.org/
wiki/File:Bayou_Corne.jpg

こちらは江利チエミの”ジャンバライヤ”
  英語も日本語も歯切れのいい歌声です。
えっ、江利チエミ、知らないの?

 

 

 

曲名の「ジャンバラヤ」も料理名。ニューオリンズの名物「ケイジャン料理」や「クレオール料理」の代表料理で、スペインのパエリヤ(paella、パエージャ)に似た米入りの炊き込み料理です。今日では「ケイジャン料理」と「クレオール料理」の違いはほとんどどないようですが、その成り立ちは異なります。

ジャンバラヤ Jambalaya.

 出典:In Wikipedia. https://en.wikipedia.org/wiki/Jambalaya

   ガンボ Gumbo.

 出典: In Wikipedia.
https://en.wikipedia.org/wiki/Gum
bo

ケイジャン料理のルーツを探る


ケイジャン料理のケイジャン(Cajun)はアケイディアン(Acadian)という語からの転訛だと言われています。カナダの大西洋側にノバ・スコシア(Nova Scotia)という州があります。「新しいスコットランド」という意味です。 この地名は1710年にイギリス領になった時からで、その前は アカディア(Acadia)と呼ばれていました。

 

17世紀初頭、フランス人の入植が始まり、彼らはこの地をアカディア(Acadia)と名付け、自らをアケィディアン(Acadian) と名乗りました。その後、世界各地での植民地をめぐる争いに巻き込まれ、イギリス領となったのです。

 

1740年のオーストリア継承戦争を期にフランスはアカディア奪回を試みますが、アカディア人たちはイギリスに忠誠の道を選びます。ところが、ノバ・スコシア知事のチャールズ・ローレンスはアカディアン追放の命令を下します。時に1755年7月28日の事でありました。 住む場所を失ったアカディア人は約6000人、いわば流刑流浪の民。世界の各地へーーー西インド諸島、フランス領ギアナ、フォークランド諸島までにも流されていきます。各地へ渡った彼らの悲惨な暮らしや最期の記録が残っています。 祖国フランスも救ってはくれません。

 

彼らの一部、4家族20人は1764年に当時フランス領であったルイジアナ南部のミシシッピ・デルタ地帯へ辿り着きました。翌年1765年にはさらに200人が別ルートで到着。1768年には入植者数1000人以上となっていました。

 

1785年、フランスに戻っていたアカディア人約1600人が7隻の船でルイジアナへ移住してまいります。移民のための費用はスペインが負担したのです。 スペインが旅費を出した目的は、新大陸にカトリック教徒を増やしたいから...、というのは表向き。ミシシッピ川を挟んで東はイギリス領、西側のルイジアナは1763年にフランス領からスペイン領になっています。緩衝地帯にアカディア人を住まわせ、謂わば「盾」としたのです。

 

この人たちがこの地に定住しアケイディアン(Acadian)からケイジャン(Cajun)へとその呼び名は移ってまいります。 ケイジャンはもともとフランスはノルマンディーやブルターニュの地方出身者たちです。彼らが移り住んだ、ここルイジアナ南西部の沼沢地では、新鮮な魚介類や自然の食材が豊かにありました。

 

これら土着の材料を、フランスの地方料理に取り入れ、やがて香辛料やハーブなどを加えていき、次第に刺激の強い味となっていきます。気候風土と日々の労働から彼らの嗜好は強烈な辛さの料理を求めるようになったのかもしれません。 ケイジャン人口はルイジアナ州で43万人、米国全土で60万人になるそうです。(1990年の国政調査による.Wikipediaより資料古いね

参考サイト: ■  https://en.wikipedia.org/wiki/Cajuns
The Link Between the Acadians and Cajun Culture

クレオール料理までの変遷

クレオール(Creole)という語は多義にわたっていますが、根本は人間社会の混交における現象の概念でありましょう。(何のこっちゃ。)この説明では(私が)わかりませんから、

  1. 新大陸や他の植民地圏で生まれた黒人または白人。さらに、その混血。
  2. かつて植民地において支配国の市民権を取得した植民地の人たちとその子孫。植民地で生まれ育った人。
  3. クレオール言語の事。
  4. ルイジアナ州ニューオリンズの伝統料理。クレオール料理。

と、まとめてみましたが、ちょっと付け加えましょう。

➜クレオール(Creole)とは、もともとは植民地生まれの白人の事でありました。たとえばフランス人が海外に植民地をつくる。やがては本国フランスを知らない子供が生まれることになります。その子供たちををクレオールと呼んだのです。その後、彼らの言語や文化などもクレオールという概念がでてきます。

 

植民地支配や貿易などのためにやってきた人たちが、現地人と疎通を図るために自然に両方の言葉がごちゃ混ぜになってきますね。それがひとつの言語として成り立ち(ピジン言語)、根付いてその地の子孫には母語となります。それがクレオール言語です。世界中に例があります。簡単に言えば、人種、言語、文化にわたっての混血、混合、混種がクレオールであると言えましょう。(最初から簡単に言えって。。。) 

 

それでは、ニューオリンズの「クレオール」のお話に移りましょう。
1718年 ミシシッピ川下流にフランス人入植者は集落を形成しその地を「ヌーヴェル・オルレアン」La Nouvelle-Orléans英語: New Orleans  New Orleans)と名付けます。新しいオルレアンの意。 オルレアンはフランス、ロアール川沿いにあって、パリとならぶ王家の町です。「オルレアンの乙女」、聖少女ジャンヌ・ダルクの出身地です。

 

植民地での料理はフランスの伝統的なソースを主体とした、手間をかけたものです。その料理人はアフリカからの奴隷たちでした。彼らは祖国の手法や独自の知識も次第に加えていきます。 1762年、ニューオリンズを含むミシシッピ川以西のルイジアナ領は秘密裏にフランスからスペインへと売り渡たされます。(1762年のフォンテヌブロー条約

 

スペイン人は、香辛料ふんだんで風味の強い自国の料理に、フランスのソースを取り入れ、アメリカの食材を使って調理しました。また彼らは、たとえばソーセージと海老など 肉類と魚介類をひとつの料理で使いました。それから、米の上にさらに別種の食物を盛り合わせます。豆類やオクラなど。これらがその後のクレオール料理の基となっています。

 

1800年ナポレオン1世はルイジアナをスペインから取戻しますが、1803年にはアメリカ合衆国に売却します。1812年ルイジアナ州が成立。1861?1865年の南北戦争の後、イタリア人がニューオリンズに入ってきますと、トマトのソースとパスタが加わることになります。そしてさらに、ドイツから、アイルランドから移民がやってきます。 このようにクレオール料理は時とともにごちゃ混ぜに、、、 いや、進化し続けてまいりました。


🔺“Gumbo vs. Jambalaya: What’s The Difference? (Recipes and More!)”
「ガンボvsジャンバラヤ: その違いは?(レシピ他)」

お話してまいりましたように、ケイジャン料理とクレオール料理の成り立ちは異なります。旅行案内書などには

”  ケイジャン料理は、開拓移民労働者の料理ですから庶民的で、クレオール料理は植民地時代の支配階級にその流れを汲みますから上品で洗練されています  ”

などと、書かれていることがありますが、実際は、おなじルイジアナ料理ということでさほどの違いは今日では見られないようです。

でも、中には微妙な違いが残っている料理もあるのです。例えばジャンバライヤ。 ケイジャンの代表的なジャンバライヤのルーは油と小麦粉が主体の茶色いソース仕立てクレオールのそれはスペインやイタリアの影響を強く受けており、バターと小麦粉で作る赤いトマトソースが主流です。

 

とまれ、先住民族のチョクト族、それからフランス、アフリカ、スペイン、アングロサクソン、いろいろな人々が対立し、あるいは融和し200年以上にわたりそれぞれの文化が交じり合って独自の料理として出来上がったということでありましょう。

ラフカディオ・ハーンのクレオール料理本

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲 / Patrick Lafcadio Hearn 1850年 – 1904年)はニューオリンズについてこう記しています。

初めてこの町へやって来て悦びを感じない人は少ないし、この町を去る時に名残惜しさを感じない人は少ない。この町の魔力は神秘的で、甘美で、誰もこれを逃れることは出来ない
“The Glamour of New Orleans “(ニューオーリンズの魔力)から

For in this season is the glamour of New Orleans strongest upon those whom she attracts to her from less hospitable climates, and fascinates by her nights of magical moonlight, and her days of dreamy languors and perfumes. There are few who can visit her for the first time without delight; and few who can ever leave her without regret; and none who can forget her strange charm when they have once felt its influence.
             出典 : Creole Sketches / The Glamour of New Orleans by Lafcadio Hearn
この季節、ニューオリンズの魅力は、もてなしにくい気候からニューオリンズに引き寄せられ、魔法のような月明かりの夜と夢のような気だるさと香水の日々に魅了される人々を最も強く惹きつける。初めてニューオリンズを訪れて、喜びを感じない人はほとんどいないだろうし、後悔せずにニューオリンズを去ることができる人はほとんどいないだろう。(訳 Deepl)

パトリック・ラフカディオ・ハーンはギリシアレフカダ島生まれのアイルランド人。父親は英国軍の軍医、アイルランド人。母はキティラ島出身のギリシャ人。ハーンはあちこち新天地を求め放浪をつづける人生でありました。

 

ラフカディオ・ハーンは19歳でヨーロッパを離れ、以後新天地を求め各地を放浪し続けました。来日は1890年。翌1891年松江の 士族 小泉湊の娘・小泉節子(セツ)と結婚し、1896年には帰化して「小泉八雲」と名乗ります。1904年、満54歳で没するまで日本での生活はご存じのとおりです。

来日前、若いハーンは、様々な文化が融合する「クレオール」に強く惹かれていました。南北戦争(1861年-1865年)の後、クレオール文化が抑圧され衰退する事を憂いたハーンはニューオリンズで、あるいはフランス領西インド諸島でクレオールにかかわる民謡、民話や伝説を意欲的に採集しております。ニューオリンズには1877年から約10年間滞在していました。彼はかの地で、新聞記者から作家へと転身していきます。

1984〜1885年にはニューオリンズで万国産業博覧会が開催され、彼は日本館の取材を行ったようです。これが日本へ渡る大きなきっかけとなったことでしょう。

 

ハーンはニューオリンズの街で一時期、料理店を開いています。1879年2月ですから30歳直前です。彼の自慢は市価の半値、
《ニューオリンズで一番安い店です。料理は何でも一皿5セント。市価など糞くらえです。》  と手紙に残しています

ですから、1ヶ月足らずでつぶれてしまいます。商売の相棒に金を持ち逃げされた、という はなしもあります。

 

 

そのハーンがニューオリンズ滞在中に集めたクレオール料理のレシピ集があります。“Lafcadio Hearn’s Creole Cookbook” (ラフカディオ・ハーンのクレオール料理本)という本で、1885に出版されました。今手元にあるのは1969年復刻版の第2版(1990年)です。➜

料理心得や調理道具。スープから各種ソース、魚料理、肉料理、パン、デザート菓子類、飲み物に至るまでクレオール料理が網羅されていますので、たしかにレシピ本なのです。でも、現代の料理本のように材料の割合などが事細かに書いてはありません。このレシピで料理を作るとなると、ちょっと想像力が要求されるかもしれません。

 

 

料理を主題にした、クレオール愛が詰まったハーン作品集という感じでしょうか。ハーン自身による版画挿絵も料理に役立つものではありませんが、往時の習慣風俗を彷彿とさせるたのしめる本です。

 

 

この本には当然、オクラ(okra)もガンボ(gombo)も随所にでてまいります。当時のガンボではとろみを付けるのにオクラ、またはフィレ・パウダー(filé powder / サッサフラスの葉の粉)のどちらかを使いました。

 

ところで、、、ここでこのブログ冒頭のギモンに戻るわけです。

ラフカディオ・ハーンは日本に帰化して小泉八雲になってから、オクラを食したことはなかったのでしょうか」と。オクラが日本に入ってきたのは幕末から明治の頃でしたから、明治23年来日、29年帰化の八雲は手に入れることもできたのではないかと思うのですが。細君セツさんにオクラ入のクレオール料理を振る舞ったなんて記録はないのでしょうかねぇ。 無いようですね。お手上げです。この件、オクラ入りかな。


※この本の日本語版がありました!! 1998年にTBSブリタニカから出版されその後絶版だったのですが、2017年に復刻版がでています。「ラフカディオ・ハーンのクレオール料理読本」が書名です。➜

 

 

 

 

 

オクラの栄養素と効果

オクラは野菜の中でも、優れた栄養価を持つ食品として知られています。ビタミンやミネラル、食物繊維が豊富に含まれています。オクラに含まれる主要栄養素とその含有量は以下の通りです。

オクラ (生) 主な栄養素と100gあたりの含有量
  • エネルギー : 30 kcal
  • 食物繊維 : 5.0 g
  • タンパク質 : 2.1 g
  • ビタミンA相当量 : 56 µg
  • ビタミンK : 71 µg
  • ビタミンC : 11 mg
  • カルシウム : 92 mg
  • 鉄分 : 0.5 mg

µg = マイクログラム, mg = ミリグラム

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/オクラ

ビタミンCやビタミンK、食物繊維などの栄養素を手軽に摂取できます。また、カルシウムや鉄分といった重要なミネラルも一定量含まれています。

豊富な栄養素の摂取により抗酸化作用、免疫力向上、老化防止、血液凝固促進、整腸作用、骨の健康維持などさまざまな健康上の効果が期待できます。

具体的には、ビタミンCが豊富なので風邪をひきにくくなったり、ビタミンKが骨粗しょう症のリスクを軽減したり、食物繊維が便秘を予防・改善したりと、オクラを積極的に食べることで健康的なカラダづくりをサポートしてくれることになります。

ネバネバ成分の秘密: オクラのペクチンと食物繊維

オクラのネバネバとした独特の食感は、ペクチンと植物性糖タンパク質ムチレージの豊富な含有量によるものです。ペクチンは、水溶性の食物繊維の一種で、オクラには多く含まれています。ペクチンには糖の吸収を遅らせる作用があり、それにより血糖値の急上昇を防ぐことができるとされています。また、ペクチンは体内のコレステロールを排出する働きもあるため、コレステロール値を下げる効果が期待できます。

オクラ ねばねば[生と茹で]

生と茹ででは栄養素の損失具合が異なります。生のオクラは加熱調理した場合に比べて、ビタミンCの損失が少なくなります。

茹でたオクラはネバネバ成分が増えるため、食物繊維の吸収がよくなります。水溶性のペクチンや一部の不溶性食物繊維が、オクラに含まれる水分と結合することで、ネバネバした特有の食感が生まれるのです。

ネバネバ文化? ネバネバの語源

ネバネバした食べ物は健康のために良いといわれていますね。日本では古くからネバネバの食文化が根付いているように思います。気候も作物も調理も食事様式もネバネバに適っているのでしょう。

 

例えば米。多くの国で米は食べられていますが、粘りのあるジャポニカ米を好む国はむしろ少数派でしょう。米の調理方法も「煮る」のではなく粘りを大事とする「炊飯」です。炊飯のとき沸騰すると、蓋のまわりから粘りけのある汁が出てきます。これを「おねば」といいます。おねばを噴きこぼさずに炊くことが大切であり、おいしいご飯を炊く秘訣でもあると、昔からいわれてきました。

食事の方法も、器を持ち上げ箸でいただきます。皿をテーブルに置き、ナイフやフォークでネバネバ食を食べるのは合わないように思いますね。

ネバネバの語源は「粘し(ねばし)」、だそうです。たぶん「粘粘し(ねばねばし)」だろうとは想像つきますが、古くから根張るという言葉がありそれからの派生語だそうです。

鎌倉時代、1275年成立の「名語記(みょうごき)という辞典には「ねばねば」の記述がありこれが初出だそうです。 また、江戸後期、銭湯に集まる庶民の生活を描いた式亭三馬の滑稽本 「浮世風呂」(うきよぶろ)の会話にもねばねばがでてきます。

  • 「これも、のりの様に、ねばねばとある」(名語記(1275)九)
  • 「脂掌(あぶらって)だから手(てヱ)ひかれてもねばねばするは」(滑稽本 浮世風呂(1809‐13)四)
  •  精選版 日本国語大辞典より

オクラの英語表現と使い分け

オクラは英語からの外来語で、英語でも”okra”であることはすでに申しました。オクラの英語表現をまとめておきます。

オクラの英語 “okra” その他

一般的にオクラを表す場合は、「okra」が基本的な英語表記でしょう。

okraはヒンディー語の「bhindi」に由来し、トルコ語の「okra(okra)」を経由して英語に入った語だとされています。現在、世界中で通用する標準的なオクラの呼び名です。英語圏の多くの国々で「okra」の呼称が使われており、最も一般的な英語表現と言えます。

オクラのレシピを英語で検索する際や、オクラの特徴を英語で説明する時など、ほとんどの場合「okra」と表記すればこと足りるはずです。

I bought some fresh okra at the market.“(私は市場で新鮮なオクラを買った)
I added some chopped okra to the stew.“(シチューに刻んだオクラを加えました)
などと、一般的な文章で「okra」を使えばよろしいでしょう。

その他に、「bamia」(バミア)という語もオクラを指す言葉として使われることがあります。これはアラビア語由来の言葉で、地中海地域の国々で一般的に使用されています。英語圏でも使われています。

「bamia」(バミア」は料理名としても使われています。gumboも料理名でありオクラそのものも指しますから同じですね。「bamia」(バミア)はオクラ、ラム肉、トマトを主材料とするアラブおよび中央アジアの主菜です。

オクラを「lady fingers」と呼ぶと、ネットでは見かけますが、一般的な呼び方ではないでしょう。lady fingers」は、直訳すると「淑女の指」といったところすが、オクラの形状が指に似ていることからでありましょう。通常はオクラを指す言葉として使われません。一部の地域や料理文化では「lady fingers」と呼ぶことがあるかもしれませんが。

日本でもオクラの種類はたくさんありますが、アメリカ南部でも多くの品種が栽培されているそうです。代表的なオクラ3種類、ご紹介します。

    • Clemson Spineless(クレムソン・スパインレス): 葉に棘(スパイン)がないことが特徴です。この品種は、収穫が容易で、料理に適した柔らかいオクラを生産します。
    • Annie Oakley(アニー・オークリー): 収穫が早く、短い成長期間で大きな収穫が可能な品種です。耐病性があり、栽培がしやすいそうです。
    • Cajun Delight(ケイジャン・ディライト):美味しい果実と優れた収量を持つ品種で、暑い気候にも適応します。この品種は抵抗力があり、病気や害虫に対して強いとされています。

 

オクラの英語 “gumbo”

gumbo」(ガンボ)はアメリカ南部のルイジアナ州で生まれたケイジャン料理やクレオール料理のスープや鍋料理です。由来となったフランス語「gombo」はオクラを指す言葉で、西アフリカのバンバラ語の「guingombo」やウンブンドゥ語の「ki-ngombo」という言葉が語源だといわれています。これらの語はオクラや、その粘り気のある食感を指す言葉として使われてきました。

いまは、「gumbo」といえばケイジャン料理やクレオール料理の「ガンボ」で、オクラそのものを「gumbo」ということはあまりないのかもしれません。フランス語やイタリア語では、今でもは「gombo」です。(と綴ります)

仏語: J’aime les soupes avec beaucoup de gombos.(私はオクラがたっぷりはいったスープが好きです。)
伊語: Mi piace la zuppa con molto gombo.(私はオクラがたっぷりはいったスープが好きです。)

英語:I’m making gumbo with plenty of okra.(たくさんのオクラを使ってガンボを作っています)

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